英ガーディアン誌によるピーター・ムーアへのインタビュー。
ドリキャスの最期を看取った男 ピーター・ムーア インタビュー(1)の続きです。
ドリームキャストの失敗から学んだことはありますか?
あのなぁ、"失敗"とはキビしすぎるよ!(笑)そこまでは行ってないんじゃないかな。そうだな。当時、ソニーにはアタマに来てたけど、彼らの立場なら同じことをしたかもしれないな。彼らはよくやったよ。彼らも2005年に同じことをしたのだが、『Killzone』でユーザーに約束したものは実現できなかったし、プレイステーション2でも、エモーションエンジンがゲームをよみがえらせ、リアルプレーヤーやフルのネットブラウザを搭載して・・なんてみな実現しなかった。しかし彼らはユーザーの心に疑念を残した。いわばゲリラ的なPR戦術なんだが、3年前のE3でXbo360で同じことをやろうものなら激しく叩かれただろうな。何故なら我々はアルファ版でもベータ版でも、実際のフッテージを見せるんだってことを固く決めていたからね。その後、ソニーは『Killzone』の映像で追いついたように見せたんだが・・・いまだに発売されてないだろ!映像を見たか?あれはゲームであってただの映像じゃないんだけどな!だが彼らがやったのは、また疑念を残すということだった。まぁそれは古典的なPR戦術なんだけどな。
話をドリームキャスト対PS2に戻しましょう。
それは悲惨な結末だった。すべては突然で、ドリームキャストのことを想っていたユーザーの心象を考えるとね・・・。当時の本体は$199で、初のオンライン対応ゲーム機だった。我々にはいくつもの素晴らしいタイトルもあった。『ソウルキャリバー』、『ソニックアドベンチャー』、『Trickstyle』、『Ready 2 Rumble』・・・。今は笑うかもしれないが当時は最先端のグラフィックだったんだよ。
しかしながらソニーのネガティブキャンペーン(FUD)は見事だったよ。そうだよ。不安や疑念を煽るんだよ。それは大規模なネガティブキャンペーンだった。消費者はそんなのを目にしたり、考えはじめるようになる。 "ドリームキャストには実現できるのか?"って。特にヨーロッパでは効いたし、日本では壊滅的とも言えるくらいだったよ。
その時の私の仕事といえば・・・個人的な性格もそうなんだが、自ら前に出て行って"おいどうした?自分のできることから始めようぜ。日本側から何か指示をもらうまで悠長に待ってる場合じゃないぞ、自分からナシをつけにいかないと"って感じだったかな。というのも広告活動ってものを日本側はまったくわかってなかったからな。彼らは何か情熱をこめてコンセプトを伝え回るとかそういうことをしないんだな。だから我々はとにかく一生懸命やるってことくらいしかできなかった。残念なことにもう手遅れだったんだが。
その後、2年くらいセガにいましたね。
ああ。当時の俺の仕事は20年の歴史のあるゲーム機メーカーから、ソフトメーカーに移行させることだった。そしてニンテンドー参り、ソニー参りだよ・・・
辛い時期でしたか?
楽観的ではなかったな。我々にはユージ・ナカやユウ・スズキなど、他社のゲーム機ではやったことのない開発者しかいなかったからね。今でこそみんなマルチプラットフォームにする必要がある、なんて言ってるけど当事は誰でもマルチプラットフォーム戦略なんてやりたくなかったからね。"よっしゃ。ドリキャスの開発キットをPS2とXboxのにとっかえるぞ!"なんて突然言えるもんじゃないしな。そこでマイクロソフトと『クレイジータクシー』やら何やら11本くらいをXboxで出すってことになったのかな。
そして日本で首脳陣と争うことになったのですね。何故なら世界中が『GTA』にハマっている頃、日本のセガはまだアーケードに頼っていたのですから。そこからどのようにしてマイクロソフトへ?
ロビー・バッハがクリスマスのお祝いを兼ねて、今は何をしてるんだって連絡をとってきたんだ。俺はあまりうまく行ってないと答えた。日本側の意識を変えて、欧米の技術者を雇って開発体制を真剣に変えなきゃいけないとか、そういうことを日本の首脳陣に説得するのにウンザリしててね。日本のゲームは欧米に追い抜かされつつあったし、日本人開発者達も取り残されつつあったりでね。それでロビーがこっちに来てみないかと言ったんだ。マイクロソフトこそが君の家だとね。
そんなこんなで2003年の1月に、スティーブ・バルマ ーとこに飛んでいって昼食をともにして・・。そこまで行ったらノーとは言えないけど、俺らはそこでいいランチを過ごせたとともに マイクロソフトはソニーを追い抜かせると確信できたんだ。立ち上がってヨロイを着込んで、馬に乗ってソニーに再び立ち向かう気分だよ。ただ今回はおカネならあるぞ!(笑)って。そしてイエスと答えたんだ。
バルマーはあなたのセガ時代の業績やビジネスマンとしての姿勢を評価したのでしょうか?
彼は俺の姿勢を買ったんだよ。彼は俺がセガでどうだったかなんて気にしていなかった。彼はどうしたらマイクロソフトが勝てるのか、どうしたらソニーを追い越せるのかを知りたがった。
そしてどうやったら競争相手を買収できるのかを知りたがった。ニンテンドーのことだね。その頃はよくそんな話ばかりしていたよ。 まぁよくある作ったほうが早いか、買った方 が早いかっていう話だね。
そしてXboxが発売された。それはアグレッシブなシューター向けの黒い箱だった。次にそれをどう進化させ、どう次のXboxを作るのか、どのようにしたらソニーを追いかけるのか検討を重ねたんだ。面白いことに、俺らは当事、完全にソニーにだけに的を絞っていて・・・ニンテンドーのことは競争相手として気にしていなかったんだよね。
スティーブは非常に魅力的な人物だよ。特に彼のオフィスでサシで向かいあってるとね。俺らはそこでどうソニーと競争するのか、とか弱点はどこだとか話し合ってね。しかしスティーブの思い描いていた絵はもっと大きかったんだ。我々は世界中の消費者の娯楽に割り入る必要があったんだ。マイクロソフトに何かできる役割があるはずだと、Xboxでそれが実現出来ると信じてね・・。その頃にもソニーへの関心はわずかながらあった。我々はソフトウェアやサービスの面から攻めて、彼らをリビングから追い出したかったんだよ。そんな感じで2003年の1月からマイクロソフトで働くことになったんだな。
バルマーはあなたがマイクロソフトに何をもたらすと望んでいたのでしょうか。
俺は日本で表舞台で戦った経験があった。だからマイクロソフトでのスタートも日本だったんだ。日本市場では壊滅的だったこともあってね。だから日本を任された。さらにイギリス人だったこともありヨーロッパ部門も任された。そこからは一気にグローバルにXboxを任されることになったんだ。
でも俺はエクセルのシートをじっくり眺めているようなタイプじゃない。もしキミがビジネスをやることになって、誰かに広い役割を任されたとする。その時はリーダーシップを発揮して、仕事のハナシをして、そこにはちょっとだけ個性を入れるとといい。そうすればデキる人が自然と後ろについてくる。そこでだよ。マイクロソフトには余るほどデキる人がいたんだな。これが。
そしてXbox360を作りあげた。それは素晴らしい時間だったよ。俺らは出来上がったクレイモデルを前にそれを何と呼ぶべきかを決めようとした。部屋に座って起動音の候補を選ぶべく色んな音を聞きまくったことを思い出すな。段々と360が形づくられていくと、20ものプロタイプを実際に造って、写真を撮ってはわざとウェブにリークしたりして、ブロガーから誰まで混乱させたりしてな。
そしてレドモンドである日、俺はこう言った。「カネをかけたゲーム機の発売キャンペーンなんてもうウンザリだ。俺は違うことをやるぞ」ってね。そこでMTVに連絡を取った。VMAの関係で付き合いがあったからね。「30分番組をやらせてくれないか」って電話したんだ。そして広告部門の上司に言った。俺らは他のどのゲーム機でもできるようなことはしない、俺らはMTVやるんだ、30分番組をやってやるんだ、とね。よくあるコマーシャル番組みたいにはしなかった。最終的にはそういう側面もあったが。そして
『Zero Hour』をやったんだ。
俺らはエリア51まで行って格納庫を借りてね。それで我々は言った。我々はかなり違ったやり方でコミュニティに語りかけるんだと。そして5000人近い人を抽選で招待した。確か、すべてオンラインで選んだはずだ。そして彼らをUFOがよく出没するカリフォルニアの砂漠から車で連れ出して世界最大規模の格納庫に招待したんだ。すごかったよ。そして発売を24時間前から数千人のファンにゲームを遊ばせた。我々は草の根レベルから、でもドリームキャストよりも豪華で盛大にやったんだ。俺らはホントに、ゲーム機の発売イベントを再定義したと思うよ。
あなたは特にブログ文化の発達には機敏ではなかったですか?
イエス。何故なら我々はオンラインを取り入れたかったからね。すでに我々はXbox Liveを造るつもりだった。そしてそれはXbox時代よりもアグレッシブなものにするつもりだった。"ブログ"という言葉は2003年以前にはなかったと思うが、とにかく我々はコミュニティと話をしなければならないということを知っていた。黒い箱よりもアグレッシブに進化する必要があった。それもオーガニックにね。我々は日本のHERSという会社と一緒に本体のデザインを造った。みなさんにお目見えした時にはだいぶ丸くなったものだが、当初作ったものはもっとトゲトゲしたデザインだったんだ。そのままだったら2500万人の会員と20億ドルをかけて同じ過ちを繰り返していたところだったね。ビジネスには目論見が必要だからな。
そして我々はかつてないほどキちゃってるテレビCMを3本造った。そのうち一つは「Standoff」というヤツで、お蔵入りになったので誰も見ることはなかった。マイクロソフト本社の許可が下りなくてね。俺はものすごく素晴らしいと思ったし、史上最高のテレビゲームCMの一つになったはずなんだが。撮影はブエノスアイレスの駅。そのアイデアを気に入っていたので、後でそれが「Jump in」のキャッチにつながったんだ。俺はあまりゲームっぽいCMはやりたくなかった。ゲームを宣伝してるというよりは、楽しみを宣伝してる感じかな。だがそのCMはちょっとリスキーだと考えられたらしい。
ある朝、マイクロソフト社内のマーケティング部門の上部の人間にそれを見せたら「そのCMをテレビで流すなら、私が死んでからにしてね」って言ってね。ちょっとキレたよ。泥棒と警官、カウボーイとインディアン、子供の頃にみんなやってたことなのに!ってな。だが結局、放送はされなかった。後に
Youtubeで何百万回も再生されたのでその必要はなかったんだが。
ここまでがXbox360発売までのハナシだ。それで数十億ドルのリスクを背負ってソニーを追い越せたかどうかだが・・・これはただのビデオゲーム機戦争ではなくなった。そしてマイクロソフトはどこに行こうとしてるか?狙いはどこにあるのか?。そうだな、まずはXbox360だ。それにXbox Liveの行く末。テレビに接続された過去最大のソーシャルネットワーク。それが常々我々が取り組んでいたコンセプトだ。
http://www.guardian.co.uk/technology/gamesblog/2008/sep/11/playstation.microsoft
(3)にたぶん続きます。