英ガーディアン誌に掲載された、元セガ、元MS、現EAスポーツのピーター・ムーアのインタビューです。
http://www.guardian.co.uk/technology/gamesblog/2008/sep/11/gamesinterviews.microsoft1
最初から始めましょう。あなたは体育大学を卒業されてからサッカーを教えるためにアメリカへやってこられました。その後、どんな経緯で?
俺は実業がやりたくてね。フランスの靴メーカーのパトリックに就職したんだ。そしてカリフォルニア南部の営業マンになったんだよ。トヨタのカムリに靴を詰め込んで、メキシコ国境からベーカーズフィールドあたりまでバカっぴろい範囲を受け持ってね。80年代の中頃にサンフランシスコに来て1998年にはパトリックの社長になった。パトリックで働いたのは11年。その後、リーボックへ移った。そして世界的なスポーツであるサッカーに参入した。リーボックはボストンにあってね。いい街だけど冬は悲惨でね。西海岸に帰りたくなったよ。そしてそれがビデオゲーム界に入ったきっかけだね。転職の代理人がこう言ったんだ。「あなたはビデオゲームについて詳しいですか?セガやドリームキャストの名前は聞いたことがありますか?」そして俺はこう答えた。「そんなには・・・でも知ってるような・・・知らないような。」ってね。そしてセガが拠点を置くサンフランシスコのベイエリアに戻ることになったんだ。
リーボック時代の仕事から考えると、セガではどうでしたか?
俺はリーボックではグローバル部門のディレクターとして出発した。俺がリーボックを世界的にできる人物だと考えられたんだろうね。俺が副社長になってすぐの時点で、ライアン・ギッグスやデニス・ベルカンプ、アンディ・コール(サッカー選手)なんかと契約した。そしてリバプール(英サッカーチーム)とも。それはリバプール市民だった俺には至福の瞬間だったねぇ。
ドリームキャストはトンでもない野獣だったよ。セガも財政的にアップアップでね。それは日本のある種、生ぬるい、おざなりな対応に起因していてね。とにかくデカい賭けだったんだよ。つまり、ゲーム機ビジネスをやろうものなら数億ドルは必要となる・・・そして北米での発売は、またとない最後のチャンスだったんだ。ヨーロッパでも発売はされたものの、1年後のPS2の発売を控え、厳しい状況は変わらなかった・・だからアメリカこそがドリームキャストを成功させる唯一の可能性だったんだ。
我々にはかなり強力なタイトルが揃っていた。しかし残念なことにEAが・・・神よ!・・・ドリームキャストにはソフトを出さないと決めてね。その為に自社で"2K"っていうスポーツゲームのブランドを立ち上げなきゃいけないことになった。"2K"は2000年問題なんて言われてた頃に突然思い浮かんだんだけど、結局その名前に追いつくことはできなかったね。そこで"2Kスポーツ"って呼ぶかってことになった。俺らが挙げた成果では最高のものになった。
ドリームキャスト時代を思い返せば・・それは時に辛く、苦しく、時に幸福な18ヶ月だったね。だがあのニューズウィークの表紙にも"エモーションエンジン"なんて書かれたプレイステーションがデカデカと現れてね。EAはスポーツだけでなく他のジャンルも発売しなかったし・・・。俺らはその"クリスマス"の終わりに、もう"クリティカルマス"には手は届かないと悟ったんだよ。
セガのヨーロッパ支社はアメリカ支社ほど自信はないようでしたね・・・
われわれ、セガオブアメリカは勝つことを知っていたんだが。足並みは揃っていなかったようだな。ドリームキャストのロゴのオレンジ部分がヨーロッパでは青かったしな。EAでやっているような、世界共通のコンセプトっていうのが日本ではまったく相手にされなかった。
そしてJFだ。ヨーロッパ部門の責任者で自分のやりたいようにやっていた。俺らとはまったく異なるやり方でね。アメリカでは俺らはアグレッシブだったけど、ヨーロッパはちょっと違って「やつらに追いつくぞ!この戦いに勝つんだ!」って感じがなかったね。いいかい。俺はもうハード屋ではないけど、いまだにゲーム機戦争が好きだ。最前線でフィル・ハリソンを追いかけ、カズ・ヒライを追いかけ、そしてその後にジョン・リッチティエッロを追いかけって・・・たぶんユーザーもゲーム機戦争が好きでしょう。それが宣伝になって、業界を活気づけるんだよな。そして当時の我々もそんな状況を必要としていた。何故なら我々にはカネが無かったからね。結局はうまく行かなかったんだが・・・
キツかったよ。でも素晴らしい日々でもあったよ。それに俺は、これまでドリームキャストや『ソウルキャリバー』を買って後悔したなんて人には出会ったことが無いからね。我々には多くのコンテンツがあった。楽しくて、大々的な広告も沢山あったね。それもユニークなやり方で・・・。"It's Thinking"キャンペーンは大々的だったな。MTVに変ちくりんな15秒CMを打ったりな・・99年の9月9日のMTVアワードの日に発売して・・・リンキンパークやらリンプビズキットなんかのツアーをスポンサードして・・。俺らはとても大きなブランドだったんだ。だがそれも2000年のクリスマスにポシャることになった。
オーケイ。では希望の溢れていた日々に話を戻しましょう。あなたはそれほど多くの予算や時間があった訳ではないと話しました。しかし確かながら大きなインパクトは与えることができたようです。
ああ。そうだね。つまりだな。俺は2月にセガにやってきて9月にはドリキャスが発売された。ゲーム業界がどんなものかを理解するのに与えられた時間は7ヶ月間だったんだ。ソフトウェアとは・・広告を打ってキャンペーンを行うには・・それをまず4月までにやった。"It's Thinking"キャンペーンまで60日だよ。我々はバンクーバーで巨大なスポット広告を撮影(Foote Cone & Beldingによる)して、数百万ドルかけてTVCMを打ってな。それはゲーム機のアイデアを示していて、『ブラックレイン』っぽく飛行機から見下ろした感じのやつでね。発売日にCMが流れたのはMTVビデオミュージックアワードだけだったんだが、それがかなりの口コミになってね。YouTubeが出てくる遥か前の出来事だよ。
我々は素晴らしい18ヶ月だった。ドリームキャストはアツかったんだよ。我々はホントにコトを成し遂げられると思っていたよ。だがそこに日本側の掲げた目標ってのが来てね。正確な数字は覚えていないが・・とにかくホリデーシーズンに何百万台も売って、作っては出し、作っては出しってでもしなければならないくらいの数字だった。そうでもしなければ我々はビジネスを維持することすらできなくなってたんだな。
2001年の1月31日、セガはゲーム機ビジネスからの撤退を発表した。そして俺が・・・日本人ではないこの俺が、沢山の人々を呼び出しては解雇を告げなければならなくなった。楽しい日々ではなかったね。
当時、ドリームキャストは1日に5万台は売れていてね。6万から10万くらい売れる日もあったな。だがPS2の発売までに圧倒的なリードを築くことはできなかった。それは大きな賭けでもあった。セガは赤字を垂れ流したまま戦えるだけ戦って破産するってオプションもあった。結果的には傷を癒し、おこぼれをもらうために、ソニーとニンテンドーに開発キットを恵んでもらうことになったわけだが。
実のところ、これまで入った会社でコネがあったのは、尊敬するロビー・バッハのいたマイクロソフトだけだった。Xboxが発売にあたり、E3でマイクロソフトのステージにあがった唯一のサードパーティとして俺はロビーと一緒にステージの上にいたんだ。みんなはマイクロソフトにはゲーム機なんて出来っこないと言っていたけどね。でも俺はオンラインの可能性を信じていたのでマイクロソフトならやれると思っていたよ。俺は常々オンラインが鍵になると思っていた。それが彼らに続こうと思ったポイントだね。"我々はゲームの行くべき場所に行く"。みんな笑ったけどね。SEGAネットでは5万人くらいしか会員がいなかったから。いつも思うんだけど、ドリームキャストはかなり先を行ってたと思うんだよね。ブロードバンドで『Quake3』やったりしてたからね?当時のブロードバンド普及率は5%程度かな。なんか100年前の出来事みたいだけど、2001年だからね!
真の意味でネット対戦を初めて実現したのは『NBA 2K1』だよ。いつでもSEGAネットのロンチのことを思い出すよ。ハリウッドのナイトクラブ借りてね、バンド呼んで、アイス・キューブと対戦したりしたな。ダイヤルアップのしょぼいモデム回線でサンフランシスコとつないでイラっときたりさ。行き当たりばったりだったけど上手く行ったね。ダイヤルアップの回線なのに、なんだか衛星から電波がビビビって降りて来てるようなイメージを出したりな。ワイルドな一夜だったよ。その後はよく覚えてないけど。それがオンライン家庭用ゲーム機の初登場の瞬間だ。
(2)に続く